デザイン科 2025

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M.Sさん

合格大学:東京藝術大学デザイン科

出身校:神奈川県立光陵高等学校

『私を見ろ』

「やっぱり藝大を受けたい」今まで言い出せず、高3になる春になって始めて親に打ち明けた言葉でした。
完全に未経験のこの身一つでどばたの春季講習会に参加し、入試直後で「次こそは…」と燃える浪人生達のレベルの高さにただただ圧倒させられたのを覚えています。
現役時代は、上手く行かないときは「今年から始めたから、」と、いい意味で割り切って、落ち込む気持ちを引きずらないようにしていました。入直では良い評価をもらうことも増えましたが、二次試験で苦手な紙立体の難しい課題に手も足も出ず、1年間頑張ってきたことが崩れ去るような思いでした。
一浪では、一度落ちてるショックからモチベーションが上がらないときも多く、とにかく他の人と自分を比較しては落ち込むを繰り返していました。それでも、自分の好きな表現やイメージ、色使いなどを見つけていき、楽しく制作できたときは特に良い評価をしてもらえることが増えました。
自分の好きなようにやればいいんだ、と気づき、特に二次試験中は、とにかく楽しく制作できました!

あなたの感覚で、好きなことだけをしなさいと言ってくれた先生、ちゃんと観察は怠らないようにと教えてくれた先生、様々な先生が多角的にアドバイスをしてくださったお陰で、本番は迷いなく自己表現をできたと思っています。
とにかく、楽しむこと!
私はすごく楽しかったです、制作が大好きでした。ありがとうございました!

N.Rさん

合格大学:東京藝術大学デザイン科
     多摩美術大学統合デザイン科

出身校:松戸国際高校

『成長』

10歳の頃、「デザイナーってかっこいい!」と漠然と思ったのがすべての始まりだった。高3になり、美大を目指して地元の予備校へ。そこではひたすら手を動かしてものを作るのが楽しく、こんなリアルに粘土でパンとか作ってる自分すげー!くらいの状態だった。笑

でも、一浪で落ちた時、自分が落ちた理由もよくわからず、このままではいけないと思い、小さな予備校を飛び出し、すいどーばた美術学院へ逃げるように入学した。

すいどーばたでは衝撃を受けた。周りの生徒は「試験に受かるため」はもちろんのこと、「作品を良くするため」に受験に向き合っていた。ただ課題をこなすのではなく、どうすればより魅力的な表現になるかを常に考え、追求する姿勢が求められた。そんな環境で自分も「いい作品を作る」ことを第一に考えるようになった。そして迎えた二浪目。自信があった。そう思っていたのに、まさかの試験前日に私がいたのは病院だった。おそらく数日前に精をつけるために食べた焼肉が生焼けだったのだろう。絵を描くどころか、生きるだけで精一杯の状態で試験を迎え撃沈した。人生で1番の挫折を経験した。

不貞腐れて、もうどうにでもなれ。と思っていた私を、どばたの先生、そして家族は変わらずに応援してくれていた。そのおかげで三浪も自分なりのペースでやりきることができた。長い受験生活での大きな学びは自分の「作品」に向き合う姿勢と、受験数日前に焼肉を食べないことの大切さだ。この経験を糧に、これからも楽しくデザインの道を進んでいきたい。

O.Hさん

合格大学:東京藝術大学デザイン科

出身校:都立総合芸術高校

『自分と向き合った1年』

高一から藝大デザイン科を目指して予備校に通っていましたが、現役での結果は残念なものでした。失意の中、すいどーばた美術学院に移って始まった浪人生活は、自分が何も分かっていなかったことを理解するところからのスタートでした。
デッサンはプロセスや鉛筆の種類から見直し、2次課題では構成や技術を一から学び直しながら、自分の好きなテイストを課題に落とし込むことを目標に取り組みました。

自分と向き合う時間はとても苦しくて、投げ出したくなることもありましたが、地道に一課題ずつ積み重ねて、直前講習の最後まで諦めずに自分だけの武器を探し続けました。その結果、本番では納得のいく形で課題に応え、合格を掴み取ることができました。

この1年間、自分と向き合い続けられたのは、多様な個性を持つ生徒に囲まれて常に刺激を受けられたこと、そして講師の方々が悩みに寄り添い支えてくださったおかげです。
失敗も成功も成長の糧となり、参考作品や仲間の作品、講評のすべてに学びのヒントがありました。

この場を借りて、関わってくださった皆様に心より感謝申し上げます。1年間ありがとうございました!

S.Sさん

合格大学:東京藝術大学デザイン科
     多摩美術大学生産デザイン学科 プロダクトデザイン専攻
                    多摩美術大学統合デザイン学科

出身校:福島県立白河高校

『遮二無二』

超がつく程のど田舎に生まれ、芸術などしらない僕はまだ教科書の端を落書きで埋めていた中三の夏。取り敢えず進学して高校へ入れば藝大生になれる、と浅過ぎる考えで僕は教科書の端ではなく高校受験の過去問の答案用紙を埋めた。
高校入学後は運動部を辞め美術部へ転部。しかし、まわりと馴染めず一人薄暗い美術倉庫で埃の被った石膏像を、指導者と言う指導者のいない中、ひたすら鉛筆を動かし紙の上を鉛筆の鉛で埋めていた。しかも高三の春まで。はっきり言って馬鹿である。見兼ねた担任が藝大予備校のパンフレットをくれた。それがどばたとの出会いである。もっといい環境で絵を描きたい!と思い、東京へ行くことを決意。しかし、僕の家は決して裕福ではなく親は不安がっていた。どばたには特待生制度もあるし、上京すれば必ず受かる、と親を説得。バイトして上京資金を貯めた。
上京してからのどばたでの日々は驚きの連続だった。設備の整った校舎に、高い志と想像力に溢れた仲間達、僕ら生徒の不安を包み、その高い指導力で課題を解決してくれる講師の方々。あの薄暗い倉庫では出来ないことがどばたには揃っている。僕の様な取り敢えずやってみる阿呆にもどばたは、正しい道を指し示してくれた。その時の僕は、どばたなら合格に近づけると確信し、高い闘志で胸膨らませていた。
公開模試で低い点を取り、罰として夕飯を抜いたり、バイト三昧で体力を削られたり、金欠でガスを止められたりもしたが、遮二無二で努力してきた今は、教科書の端でもなく、紙の上の鉛でもない、藝大の入試情報サイトの最終合格者欄を自分の受験番号で埋めている。