服部一成氏

服部一成

デザイン・工芸科 1984年

アートディレクター、グラフィックデザイナー。1964年東京生まれ。1988年東京芸術大学デザイン科卒業、ライトパブリシテイ入社。2001年よりフリー。おもな仕事に、キユーピー「キユーピーハーフ」('98〜)、キリン「淡麗グリーンラベル」('01〜)などの広告のアートディレクション、「流行通信誌リニューアルのアートディレクション('02〜'04)、大塚製薬「ポカリスエット・地球ボトル」('04)などのパッケージデザイン、旺文社「プチロワイヤル仏和辞典」('97)などのブックデザインほか。日本グラフィックデザイナー協会新人賞(2000年)、東京ADC賞(1999年、2000年、2001年)、東京ADC会員賞(2003年)、東京TDC会員賞(2004年)、第6回亀倉雄策賞(2004年)などを受賞。

何もかもが新鮮で、ひたすら真剣だった、あのころ。

キューピー「キューピーハーフ」
キューピー「キューピーハーフ」

 僕がすいどーばたの夜間部に通い出したのは1982年のことだ。僕は西武線沿線にある私立の進学校に通う高校3年生だった。同級生たちは東大や早稲田を目指していた。そして卒業生の多くは銀行や商社に就職しているようだった。そんな環境のなかでなぜか僕はデザイナーになりたいと思ったわけだが、いま考えてみると、本当のところはただ、平凡な道はいやだ、というだけのことだったかもしれない。池袋駅周辺にはパルコや西武百貨店のかっこいいポスターがたくさん貼ってあった。デザイナーという仕事はひかり輝いて見えた。僕は美大を目指すことに決めた。

 1982年当時の高校生のファッションの平均レベルは今とは比較にならないほど低かったが、中でも僕は最もひどい部類だった。母親があり合わせの毛糸で編んだセーターを平気で着たりしていた。だが、すいどーばたでは、高校では見られないいろんな格好をしたやつらがいた。自分で作った蛍光色のTシャツを着たパンク少年もいたし、コムデギャルソンかワイズもどきの全身黒ずくめもいたし、アメカジを一分の隙もなく着こなしたポパイ少年もいたし、YMOに感化されたテクノカットも大勢いた。自分にはデザイナーになるだけのセンスがあるのだろうか。僕は少し不安になった。

 僕の学校は中高一貫教育の男子校で、中学1年のときから5年間も同世代の女の子と口をきいたことがなかったので、すいどーばたで教室の約半分を占める女の子たちを見たときには息が詰まりそうになり、目眩を覚えた。だが、僕が取り組むべき相手は隣の席のかわいい女の子ではなく、目の前に置かれたヘルメスの石膏像だった。僕は初めてのデッサンを必死で描いた。それはひどい出来で、講評会は恥ずかしかったが、自分が何か大切なものに向かって一歩踏み出したのではないかという高揚感があった。描くことは本当に面白かった。平面構成で色とりどりのポスターカラーを使えるのも心が躍った。美術を目ざす友だちが大勢できて、僕の生活は急速にカラフルになっていくような気がした。

JR東日本「TRAING」
JR東日本「TRAING」

 結局、現役の年は大学に落ちた。浪人してすいどーばたの昼間部に通った一年間、2度とは来ない18才の一年間を、僕は全速力で過ごした。圧倒的に楽しかった。休まず、なんと遅刻もせず、すいどーばたに通い、家でも家庭課題をこなした。それだけでもいそがしかったはずなのだが、親しくなったオカド君やタカハシ君と毎日のように映画に出かけ、展覧会を見た。そのあとはたいてい喫茶店で話しをして終電まで過ごした。早熟なオカド君は特に映画に詳しく、ビスコンティ、フェリーニから寺山修司まで様々な情報を教えてくれた。その情報は今思えばかなり片寄っていた気もするが、デッサンが上手でコーヒーもブラックで飲めるオカド君の話には妙な説得力があって、イノセントな僕は無条件で受け入れていった。当時池袋西武の12階にアールヴィヴァンという充実した美術書店があって、すいどーばたの帰りによく立ち寄った。お金がないので本は買えないのだが、端から端までいろんな本を開いて、目に焼き付けていった。素晴らしいもの美しいもの、気持ち悪いもの、わけのわからないもの。何時間いても飽きなかった。あのころの僕たちはカラカラに乾いたスポンジのようなもので、良いとか、悪いとか、好きとか嫌いとかを考える前に、目にするものすべてをとにかく吸収していった。ゴダールやキューブリックを知り、ボイスやデュシャンを知った。まったく図々しいことだが、いつか自分は世に出て彼らに匹敵するような何かを創るのだと勝手に想像してわくわくしたりしていた。だが一方では、すいどーばたのデッサンや平面構成がうまくいかないことにがっかりし、もう美術の道はやめたほうが身のためなのではないかと思うこともあった。

流行通信
流行通信

 しかし、悩んでいる暇はなかった。毎日毎日、新しい課題がやってくる。今度こそはすごい傑作になる、そう思い込んで、とにかく手を動かして、からだで覚えていった。本当に好きなこと、自分が打ち込めることを、やってやって、くり返して、そうしてある時、ふっと壁を越えられる。そのことを実感できたことは大きい。ゆっくりとだが、僕は前進していた。

  あれから20年近い時間がたった。僕は大人になった。コムデギャルソンを買えるようになったし、こうして若い人たちに向けての文章を頼まれるようにもなった。でも、何が変わったというのだろう…?笑われるかもしれないが、僕は今でもいつかゴダールに匹敵するような何かを創るつもりでいるし、一方では今やっている仕事がひどい失敗に終わるのではないかという不安におびえている。表現にかかわる仕事は、安定のないきびしい世界だ、でもだからこそ素晴らしく楽しくて、一生をかけるだけの価値もあるのだと思う。

 大きなパネルバックを抱えてすいどーばたに通っている自分を今でもありありと思い浮かべることができる。あのころ、僕は本当に平凡な、才能のない学生だった。ただ、とにかくびっくりするほど一生懸命だった。自分という苗を育てるために、毎日水をやり、必死で肥料を探して与え、いつか花が咲くことをけなげに信じていた。すいどーばたで学んだ造形の基礎、ものの見方は、もちろんいまの毎日の仕事をする上でとても役立っているのだが、それ以上に、あれほど真剣になれたということ、そのことが、僕をささえるひとつの大きな自信になっている。