どばたの思い出
高校時代は漠然と教師になりたいと思っていました。担任が美術の教師で、進路の相談をすると「おまえは美術が得意なんだから、それを活かして美術の先生になったらどうだ、美大を目指したらどうだ?」と。そう言われたものの、世の中に美術の大学があるということすら知らなかった私。でも数2Bやら、世界史など難しい勉強をしなくていいことや、学校の先生になれること、それに絵を描いているのが楽しいこと、この3点に魅かれて、放課後毎日美術室に通うようになりました。私は兄がデザイン学校に進学した影響もあってデザイン科に進むことを希望。それも深い考えがあった訳ではなく、なんだか格好良さそうだからというくらいの気持ちでした。
私のふるさとは埼玉県秩父市という田舎町。美術室で毎日描いてるものといえば、アリアスとかマルスといった石膏像ばかり。そんなある日先生から「おまえ今度の夏休みを利用して東京の学校で夏季講習会を受けて来たらどうだ?」「先生それって何ですか?」「あのなぁ美術大学を受験する人のための予備校があるんだ。そこで色々な課題にチャレンジしてみたらどうだ!そうだおまえはどばたがいいかも知れないなぁ」「はぁ?ど・ば・た…ですかぁ」「そうだ!どばただよ、よし決定だ!資料をさっそく取り寄せよう」と話は私の意志とは無関係にトントン拍子で決まり、気がつけば『すいどーばた美術学院』の夏季講習生となっていたのでした。パンフレットに載っている参考作品なるものを見ていると上手過ぎて、田舎者の私は「こんなに上手に描けるんだったらもう美大になんか行かなくていいんじゃないか?嗚呼こんな人達と一緒に受験するのかー」と絶望的な気持ちになったものでした。オリエンテーションを受けて、最初に向かったのは画材屋さん『あ〜る』小さな店内にぎっしりと見たこともないような画材の数々。ステッドラーの青い鉛筆にクロッキー帳、ターナーのアクリルガッシュなどなど。手にした時の「よーしやるぞ!頑張るぞー!」と心の中で誓ったあの時の気持ちは忘れられません。
最初に描いたのは『アジアンタムとブロックの静物画』鉛筆デッサンでした。
となりに座った人がすごく上手だったこと。
鉛筆の削り方までが違うように見えたこと。
緊張の一日はあっという間でした。
一つの作品が終わると必ずやってくるのが講評会。みんなの作品がずらっと並べられ、気になる作品を先生方がピックアップして講評。ドキドキハラハラする貴重な体験でした。次第に友達も増え、毎日の課題が実に楽しいものとなりました。友達でありながら競い合う良きライバルであること、刺激し合える、尊敬し合える仲であること。普段の高校生活では味わえない友情。同じ方向に向かっている仲間とは戦友のような感情が芽生えてくるのが不思議でした。授業だけでなく休み時間、昼休み、本館屋上、一号館広場に集まってアイデアを語り、相手の作品の良さを認め、将来を語り、夢を語り、笑ったり励まし合ったり、時にはケンカをする仲間が出来ました。
夏季講習はもとより冬季講習、春季講習に日曜コース。平日は通信教育も受講しました。講習会で友達になった同級生たちは夜間部に通っていて、色々な情報を田舎に住む私に教えてくれました。「勉強ばかりではだめだ!俺達受験生にだって息抜きが必要だ!」と盛り上がって、みんなで私の住む秩父に遊びに来てバカ騒ぎしたこともありました。
そんな私の『どばた生活』もいよいよ佳境、高3の夏季講習会。それまではなかなか取れなかったB’やBを時々もらえるようになっていました。Bはたしか芸大合格もアリ?みたい評価だったと思います。それがある日の立体の課題『竹ひごとケント紙で作品を作りなさい』この課題でなんとA’をもらえたんです。自信というパワーをもらえたような気がして嬉しかったです。今考えると日比野克彦さんや秋山孝さんなど素晴らしい先生方に教えていただいたことに感謝しています。『どばた』のお陰で無事現役で武蔵野美術大学の視デに合格することが出来ました。
今は全く違う仕事に就いていると思われるかもしれませんが、今も自分はデザイナーだと思っています。画材に『落語』を選んだだけで、人の心の内側をデザインする“笑業デザイナー”だと思っています。そして落語に出会えたのも武蔵美に入れたから、武蔵美に入れたのは『どばた』に出会えたからなんです。
どばた時代の仲間は今でも仲良く付き合っています。お互いのがんばる姿を見てたから。「予備校どこだった?」と必ず聞かれる質問にいつも笑顔で「どばたです。」と答えています。
【現在のレギュラー】
テレビ 日本テレビ 「笑点」大喜利メンバー
NHK教育 「ど〜する?地球のあした」
テレビ朝日 「旅の香り」 ナレーター
CS日本 「笑点Jr.」
ラジオ ニッポン放送 「テリーとたい平のってけラジオ」