すいどーばた
「黒いね」
「そうですね……」
ええっ、それだけ?どうしてこの人たちは私のデッサンの才能に、原石の輝きに気付かないんですか? 誰よりも黒々と書き込まれて、目立ちまくっているというのに……。
高校ニ年の冬、はじめて参加したすいどーばたのコンクールで、渾身の力をこめて描きこんだデッサンは箸にも棒にもかからず、講評会で「黒い」と言われて終わり、私は残酷な現実に直面したのです。信じたくないけれど、どうやら自分のデッサンは下手の部類に入るということに……。
美大を目指す人は誰でもそうだと思いますが、子どものころから絵を描いては上手いとほめられ、自分には絵の才能があると思いこんで、いや思い上がっていました。しかし、このコンクールで、天狗になっていた鼻を、ポキッという音が小気味良いくらいにへし折られました。「美大に進学したい」と厳格な両親を一年以上かけて泣き落とし説得したのに、このていたらく。今さら普通の大学に行こうにも、勉強を全然やってこなかったため、偏差値的にどこにも入れそうにありません。もうあとには引けない……私は覚悟を決め、高三からすいどーばたの夜間部(毎日コース)に入ってハードな受験勉強に身を投じることにしました。
といっても親はまだ完全には許してくれておらず「(学費の安い)芸大に受かるなら」という厳しい条件つきで渋々受講料を出してくれることになりました。祖母は祖母で「絵の勉強がしたかったら東大に行って美術部に入ればいいじゃない!」とこれまた不可能なことを言ってきて、芸大と東大の板ばさみ状態。しかし芸大と言われても志望するデザイン科は倍率五十倍、写真並の描写力を持つ五浪、六浪の猛者たちがひしめきあっていて、とても太刀打ちできません。すいどーばたの昼間部はさらに厳しい世界だと聞いていたのでなんとか現役で美大生になれれば……という気持ちでした。
しかし一年で私大合格レベルに達するのか不安でしたが、先生の「デッサンは階段を昇るように上手くなる」という言葉を信じ、高校が終わった後、合コンの誘いも断ってすいどーばたに直行、毎日こつこつ実技に励みました。画材費を自分で捻出しなければならなかったので、モチーフ当番に立候補し、石膏などをセッティングしたり、終わった後の教室の掃除をして小銭を稼ぎました。高校一、ニ年からすいどーばたに通っている現役生に遅れを取ってしまっていたので、時間が足りないということが常に念頭にあり、実技中は休憩もとらずに数時間ぶっとおしで描き続けるのも珍しくありませんでした。集中しすぎて、その後買い出しに行ったら一時的にお金の払い方を忘れ、レジで硬貨をぶちまけてしまったこともあります。そして、思うように描けずにトイレで泣いたことも何度かありました。
こうしてすいどーばたに通いはじめて数カ月、はじめて講評会でC(私大合格ライン)を取ったときの喜びは忘れられません。その時、コツをつかめた感じがして、苦手だった静物デッサンも立体感が出るようになってきました。鉛筆をけずる手にも気合が入り、毎日が楽しく青春状態。平面構成も、気付いたら課題ということを忘れて自分の作品感覚で描いていました。
すいどーばたの夜間部の生徒はお互いがライバルというより、一緒に合格しようという気運があり、皆、合格という目標に向かってまじめに切磋琢磨していました。最初、親が「娘を美術予備校に通わせるのは狼の群れに羊を放すようなもの」と心配していたのも全くの杞憂で、普通の大学受験の予備校よりもよっぽどストイックで、色恋沙汰にかまける余裕もありません。当時すいどーばたで出会った友人たちとは、厳しい受験を乗り切った戦友感覚で今でも仲が良いです。
他にもすいどーばたライフで得たことは紙幅が足りない程たくさんありますが、最も大きなものは「必ず時間内に終わらせる」というルールを叩き込まれたことです。どんなに途中経過が良くても提出の時にぬり残しがあったら不合格。プロになっても同じで、しめきりを守るのは何よりも大切なことです。すいどーばたでの日々の訓練のおかげで、体内時計をセットして時間内に完成させる術が身に付きました。今思うと、すいどーばたでの生活は、その後入った美大よりも毎日が充実していた……ような気がしてなりません。
*文中の作品は2003年にミズマアートギャラリーで開催された“池松江美(辛酸なめ子)「ソウルメイトを探して…」展”の展示作品の一部です