すいどーばたへの道
ぼくは、ビートルズになろう、と思っていた。1975年、大阪のとある進学校に通っていたぼくは、とっくに解散していた、ビートルズにあこがれた。成績がひどかったこともあって、大学なんかいかずに、ビートルズになってしまおう、と思った。「むりだ。君には音楽の才能はない。」父はそう言った。「いや、ある。」押し問答は延々続いた。ぼくは悔しくて涙がとまらなくなった。実は父もこうやって自分の進む道について祖父と言い争って泣いたのだ、ということを話してくれたのは、夜も白んできたところだった。その時初めて、父が画家になりたかった、ということを知った。「だから絵のほうに進むなら、認める。」絵?ビートルズの事しかなかった僕の頭の中は混乱した。しかしまてよ?たしかジョンとポールが出会ったのは美術学校ではなかったか?そうか!その手があったか!ぼくは美術学校経由でビートルズになることにした。
高校の美術教諭はぼくに言った。「現役やねんから東京芸大一本だけ受けろ。たぶん落ちるやろうから、落ちたらすいどーばたっちゅうのがあるから、そこで浪人しろ。」晴れてぼくは「すいどーばた」に入学することになった。
すいどーばた時代
初めての一人暮らし、しかも初めての東京。なにもかもが新鮮で、受験のための浪人生活という印象は全然なかった。作家活動を営む先生たちの指導は、虚しく感じられた高校時代のそれとは違って、具体的でしかも、造形について右も左もわからないぼくを、実にていねいに導いてくれた。懇意にしてくださった、東元先輩は、いろんな展覧会にひっきりなしに連れだして本物に触れさせてくれる。そんなすいどーばた生活のなかで、ぼくは大切なことに気づくことができた。「これは受験のための受験勉強ではない。これからこの道を進むぼくの、人生のだいじなはじまりなんだ。」
志を同じくたくさんの友との出会いも大きかった。つらいことがあるときまって大阪を思い出して枕をぬらす。しかし、すいどーばたには未来への夢を共に描ける友がいる。ぼくはこうした友のおかげでいくつもの苦しみを乗り越えていけたような気がする。
その後芸大に落ちた時はすこし、落ち込んだ。しかしすいどーばた生活が、ぼくのなかの、なにかのエンジンを始動させていた。旅立ちへの燃料補給も充分だった。ぼくは自分をもっと進めようと武蔵美に入学した。
大学時代そして、社会へ
大学は、誰かが手とり足とり教えてくれる場所ではない。自分自身が考え、研究し、実践していく場所だ。それがほんとの「学問」だ。ぼくは大学に入ってあらためて、すいどーばたにいっててよかった、と感じた。かたち、色、観察、基礎造形。「ものをつくる」ということのためにとても大切な基本。これは大学では教えてくれないのだ。
ものを観る目、手を動かすこと。これはクリエイティブの世界で生きていく人間に永遠についてまわる。映像表現の世界に身においている今でも、ぼくの基本はそこにある。どんなにデジタル機器が発達しても、どんなにCGが進化しようとも、いや、それだからこそ観察と手作業の重要性が増してくるようにも思える。ぼくはこの「基本」を、一番柔軟で多感な時期にすいどーばたで学んだ。これは終生消えるものではないだろうと思う。だって、すいどーばたがぼくの「ものをつくる」エンジンに火をつけたのだから。
これから造形の道をこころざして受験しようとするみなさん、すいどーばたにきて、受験のためのテクニックだけではなく、「ものをつくる」ということの基礎を学んでください。高校の勉強では得られなかったすばらしいもの、そして大学でもけっして教えてくれない大切なものをすいどーばたでつかんでください。