城戸真亜子氏

城戸真亜子氏

油画科 1983年

1961年 愛知県生まれ
1987年 武蔵野美術大学油絵学科卒業

【展覧会】
1986年 「ムーンライトパーティー」
     日本橋東急百貨店美術画廊
1987年 「ムーンライトパーティーVol.2」
     日本橋東急百貨店美術画廊
     「OMNI ART展」西武アート・フォーラム
1988年 「CONCEPTION」
     銀座ソニープラザ・ナレッジイン
1989年 「源氏物語」日本橋東急百貨店美術画廊
1990年 「源氏物語1990」日本橋東急百貨店美術画廊
1991年 「源氏物語MIX」相鉄ギャラリー
1992年 「今 とりかへばや物語」日本橋東急百貨店美術画廊
     「源氏物語 色の情熱」梅田阪急美術館
1994年 「今源氏物語−愛のかたち」伊勢丹美術館
     「今源氏物語 TOKYO PRIVATE LIFE」
     名古屋三越百貨店栄本店
1995年 「城戸真亜子展」スカイドア・アートプレイス青山
1996年 「IN THE ROOM」日本橋東急百貨店美術画廊
1998年 「城戸真亜子展」スカイドア・アートプレイス青山
     「VOCA展'98」上野の森美術館
1999年 「樹々とそのあいだ・城戸真亜子展」
     ギャラリークラヌキ
2000年 「城戸真亜子展」スカイドア・アートプレイス青山
2002年 「城戸真亜子展」スカイドア・アートプレイス青山
2005年 「光りの絵画展」名古屋画廊

もっと目玉をつかおう!

油彩(キャンバスF130)
油彩(キャンバスF130)

人には目玉がついている。

ついてはいるけど、どれだけのものが見えているかというと、ギモンである。

私は近視か遠視か色盲か、というような話をしたいんじゃない。

問題はその人の「意識の開花」にある。

意識が花開くと目玉を覆っている白い膜みたいなものが剥がれ落ちる。

意識は何度も花開く。その度に白い膜はベロベロ剥がれ落ちるのだ。

目玉に膜がかかってるなんて知らなかった。剥がれ落ちてみて初めて、

「そっか。こんなものついてたんだ。」と思うのだ。

高2の時、すいどーばたに来た。すいどーばただから、てっきり水道橋にあるんだろうと思ってた。そしたら目白にあった。何年もそこに住み着いているみたいな浪人のオジさんとか、ダイアン・キートンみたいなおねーさんが居て、「荒川修作はどうだとか、デ・クーニがこうだ」とか話していた。メチャクチャカッコ良く思えた。

新しい友達もできた。みんなも「空間感が弱いんだよねー」とか語っていて少し焦った。でも教室で描いている絵は自分とドッコイドッコイ。すぐに焦るのをやめた。でもノンビリしてもいられなかった。

それまで人一倍ノホホーンと暮らしていた私にとって、すいどーばたを知ったことは、ものすごいカルチャーショックだったのだ。まさに「こんな世界があったのか。」というかんじ。スグに一枚目の膜が剥がれ落ちた。

いい絵が描けるようになりたい。でもいい絵って何なんだ?どうしたらいいんだ?見なくっちゃ。もっとよくみなくっちゃ!コンタクトレンズの度数も上げた。そうだ。見るだけじゃだめだ。脳にも刺激を与えなくては!小説も読んだ。心の中を去来するコトバはクロッキーブックに書きなぐった。クロッキーブックといえば、行き帰りの電車の中の人もデッサンした。でも勇気がないので描いたのは眠っている人か、後ろ姿ばかりだった。

家に居る時はいつもFMラジオをつけていた。耳だってもっと刺激しなくっちゃ!というかんじだったのだ。

今でも突然ラジオからナックとかブロンディとかが流れてくると。激しくすいどーばたの日々にタイムスリップして泣けてくる。当時聞きすぎた曲なのだ。

油彩/温度と光−6(キャンバスF100)
油彩/温度と光ー・(キャンバスF100)

「絵を描いてないヤツらはサ、なんかこうレベル低く見えナイ?オレ良かった思うよ。描いてて。そう思わナイ?」
って言ってる子がいた。ナマイキだ。けど大いに共感できた。自分達が特別な人間に思えた。見たい。描きたい。表現したい。と、思うことによってどんどん感性が研ぎ澄まされていくことが実感できた。目玉の膜もベロベロ剥がれていく。

悩みの種は、そんな「意識の開花」に肝心の腕がついていかないことだった。そこには素直に先生の指示を信じて“巨人の星”の星飛馬のようにコツコツ頑張るしかなかった。反発して廊下でタバコばかりふかしている子もいたけれど、私には反発する理論も、アンニュイも存在しなかった。そうよ私は丑年の女。闘牛のように前進あるのみ!という考えだったのだ。結果武蔵美に現役合格。どこでもいいのだ大学は。勝負はこれからだ!というかんじ。受験という不安が取り除かれ自分に対する期待でいっぱいだったのである。

あれから20年。ビックリである。何がビックリって相変わらず「勝負はこれからだ!」と思っていられる自分にビックリである。

それはともかく、私の場合すいどーばたに来るまでの16年間は眠っていたも同然。ここに来て初めて自我が目覚めたのだからありがたい話しである。」皆さんも目を覆っている膜をどんどん剥がそう。見えることの快感を知るトクベツな人間になろう。自分の想いを表現できるのは幸せなことだ。それだけでも、生きている意味があるっていうものだ。

 

【出版】

1985年 「描きかけの自画像」著者
1988年 「怖いこわーい町」装丁・挿画
     「セーター絵本」装丁・挿画
1989年 「たまに行くならこんな店」装丁・挿画
1993年 「天使の降る町・ディアーリオ」著者

【作品集】

1991年 「伽羅・きゃら」
     メディアアーティストプロデュース刊
1994年 「TOKYO PRIVATE LIFE」日本テレビ放映網刊 COVER ART
1986年 「DO YOU KNOW」CBSソニー
1987年 「愛と悲しみのマンハッタン」上・下巻 集英社
     「旅心」上・下 集英社
1988年 「ピカビアの星」村松友規 中央公論社
     「THE PAREDE」ポニーキャニオン
1990年 「フォー・ユー・アニバーサリー」ポニーキャニオン

【パブリックアート】

1987年 宝塚市観光100年記念事業
1988年 古瀬戸喫茶店・壁画(浮遊する桃・3m×20m)制作
1991年 宝塚グランドホテルCl制作開始
1992年 出石グランドホテルCI及び暖炉
     (天の日槍伝説・高さ6m×直径3m)制作
1997年 関西学研都市ハーモニーヒルズ木津オブジェ制作
     奈良交通路バス・ボディペインティング
     東京湾アクアライン「海ほたる」壁画
     (海または水のある場所を描いた先人達へのオマージュ・9m×3.5m)
1998年 ワコール「スレンダーグラマー」
     (銀座ソニースクエアー・高さ8mバルーン)制作
     新静岡センタービル・壁画(2.7m×14.55m)
1999年 和歌山「大地の女神ガイア」(高さ20m)光のオブジェ制作
2000年 船橋「そら うみ ひかり」(9m×9m×3.13m)オブジェ制作)
2004年 荒川区「水の音」オブジェ・キャラクター制作