佐藤可士和氏

satopic

デザイン・工芸科 1985年

クリエイティブディレクター/アートディレクター
1965年東京生。多摩美術大学グラフィックデザイン科卒
株式会社博報堂を経て2000年独立。同年5月クリエイティブスタジオ「サムライ」設立。
スマップ、ホンダステップワゴン、キリンチビレモン、体質水、キリン極生、生黒、TBC、パルコ、資生堂ラ・ボーテ「TOKYO 02-03」(パリ)、TSUTAYA TOKYO ROPPONGI、ISSEY MIYAKE MEN、MUSIC-ON! TV等、商品開発から店舗、空間、広告キャンペーンまで幅広く手掛ける。
東京ADCグランプリ、朝日広告賞、亀倉雄策賞、JAGDA2000新人賞、東京TDC金賞、日本パッケージ大賞金賞、ほか多数受賞。

クリエーターになる為に。

  今でもよく憶えている、高校2年の冬休み冬季講習会ではじめて木炭でヘルメスを描いた。その1枚目のデッサンで「もうこの、道しかないな、美術だ!」と確信した。すごい興奮した、そして自分の進むべき道が見つかったことがとても嬉しかった。

極生、黒生パッケージ
極生、黒生パッケージ

 すいどーばたに来る多くの人も同じだと思うが、僕も小さいころから絵を描くことが大好きだった。それと父は東京芸大卒の建築家であるため、かなり小さいころから、芸大や建築、デザインというものが周りに存在しなんとなく身近に感じてはいた。しかし実際に美大を志そうと思うのはなかなか勇気のいることだと思う、もちろん僕だって漠然とした不安は抱えていた。

 しかし、そんな不安をふき飛ばしてしまうほど、はじめてのデッサンは面白かった。もちろんうまくなんて描けない真っ黒けのヘルメスだったが、こんなに集中できることはいままでなかったなと思ったと同時に、いままで絵に自信があった自分より明らかに上手な人がいっぱいいることにショックとくやしさを憶えた。でもいつかわからないけど自分にも上手く描けるようになった気がする、それよりもこんなに好きになれることなら一生できるかもしれないと思い、美大受験を決心した。

 それから僕は毎日毎日予備校に通うのが楽しくてしかたがなかった。はじめて同じ夢をもっている仲間たちに会え、人生の中で一番感受性が豊かなその時期を刺激しあうことができたのは今も僕の中で最大の財産だ。実際、その時にできた親友が一番いまでもわかりあえる仲間だ。

Mr.Children「シフクノオト」
Mr.Children「シフクノオト」

 結果的には僕は2浪して多摩美のグラフィックデザイン科に入学した。自分の予定では現役で芸大に合格するつもりだったが、そんな甘いものではなかった。最初は芸大に落ちたことがショックだったが、多摩美大に通いはじめたらあまりの楽しさにそんなことはどうでもよくなってしまい、充実した大学生活をおくることになった。大学時代は何かを表現したいエネルギーに満ち溢れていた。学校の課題の他に自分で作品を作ったり、バンドをやってライブハウスに出たりとすごく精力的に活動していた。そのおかげで多摩美大の4年間でやったことは、ほとんど今の仕事に役立っている。そのなかでも最も大きかったことは、バンドで作曲をしていたことを通して、絵を描くことも音楽を作ること、空間や時間を演出することなど表現メディアは違っても、物を創る基本は同じだと実感したことだ。そのことがあるから現在仕事をしていても、グラフィックでも映像でもメディアを越えての創作になんら抵抗を感じず自由に表現できるようになり、僕の中でクリエイティブということは1つになったのだ。

 もう一つそのクリエイティブを支える重要なことは「デッサン力」だ。デッサン力とはただ石膏デッサンが上手いだけではない、物の見方だ。だから表現を定着させる時はもちろん、広告のキャンペーン全体の戦略を立てる時にもすごく役立つのである。全体の大きな流れとディテールとの関係は何ごとに於いても存在しそのバランスが崩れている物はやはり弱かったりするのだ。

 だから、これからクリエイターになっていく皆にとって、すいどーばたで勉強することは本当に大切だ。この時期から学生の間にどれだけ物を見て吸収できているか、しっかりした基礎造型力がどれほどつくかで将来の差は大きい。デッサンや平面構成をやるのはただの受験勉強ではなく将来のクリエイターに成るための準備だと思ってほしい。誰のためでもない、自分のためだ。皆すいどーばたに来た時からもうクリエイターとしての道は始まっている。一番多感な時期を良い仲間と共に大切に過ごしてください。