『1976年夏の頃』
どうしても昔話になってしまうが、僕が始めて「どばた」の空気に触れたのは1975年の夏期講習だった。住んでいた浜松から、志を同じくする友人と連れ立って桜台の6畳のアパートに二人で暮らした。生まれて初めての東京だからテンション上がっていたせいもあるが、周りの人間がずいぶん大人に見えた。当時の3号館でモデルさんを油彩で描く授業であったが、むしろ下宿に戻ってから、涼みも兼ねて夜毎、近所のジャズ喫茶でコーヒー一杯で何時間も粘った記憶の方が鮮烈であった。アメ横・西洋美術館・ブリジストン美術館・近代美術館等々、生まれて始めて観る「ホンモノ」の絵画群に、天井からツララのように垂れ下がったタバコのヤニの中で殴られるように聞いたマイルス・デイビスのジャズなんかが強烈なスパイスのように効いていて、何とも言い表せないカタマリとなって心に残っている。
高校三年生になってから、「ゲイダイに行きたい」、と言い始めたウブなボクに「静岡なんかでやってちゃダメだから、東京の予備校に行け。」と言ってくれた高校の美術の先生の言葉にも感謝しているが、「新美よりもどばただよ、君は。」というご託宣が無ければ、僕の人生も相当今とは違っていたかもしれない。しかし毎年受験シーズンに高校に卒業証明書を取りに帰るたびに、「マダやってんのか!」と言われ、その回数を重ねる度に体に苔が生えて行く様に感じた。
勿論バイトなどしたことも無いので、金は無く、仕送りを貰ったときは肉チャーハンのおいしい近場の中華料理屋へ行けたが、大体は立教大の傍にあった「松竹」という、老夫婦がやっていた定食屋で「ソーセージいため」を頼むのが定番であった。或いは椎名町のガード下にあった汚い立ち食い蕎麦屋が旨かった。当時の西武デパートにあった「アールビヴァン」や、ビックリガードの脇に今でもある「西山洋書」で、それまで知らなかった洋書の画集を見つけ、買いまくっていたり、休みには池袋文芸座で三本立て300円の「黒澤明特集」や「円谷英二特集」、大塚の三百人劇場で「ソビエト名画祭」などを観まくっていたので、金欠は毎度の事であったが、「どうしてもこれが観たい!」と言う気持ちと、「こんな事をしていて何になるんだろう?」という、恍惚と不安がない交ぜになった心持ちは今に至っても大事な、生き方のモチベーションになっている。
20歳あたりの自分にしか見えないものがあり、その時しか感じ得ない事は確かに存在する。ただその瞬間は果たしてそれが自分の人生の中で良い事なのか悪い事なのかはさっぱり見当がつかない。「若さ」とは本来そういうものだと思う。何かを犠牲にしなければ何かは勝ち取れない。今でもたまに、「絵ばっかり描いていて、遊ぶ時は何処へ行くの?」と聞かれて答えに窮する。自分にとって遊びも苦しみもストレスも達成感も全て「作品を創り続ける」という事につぎ込んできたので、一般的な「遊び」という意味が理解できないのだ。
絵を描いて行き詰ったら絵を描いて発散する、そういう生き方が出来なければ作家には向いていないのかもしれない。30年前に比べたら格段に表現や娯楽の種類が増えて、様々な可能性に取り巻かれて生きている様な錯覚に容易に陥るかもしれないが、結局のところ、作家が自分の位置を確立できるのは、自分の手足を使って、不安を感じながら苦しんで自分を表現する、という案外アナログな方法しか、とりようが無いのだ。ココまではっきり言い切れなくても、その考え方の入り口を30年前のすいどーばたで学んだ気がする。